期 間:2018年10月6日~8日

参加者:吉水岳彦、藤沢裕雅、福田亮雄、河田みのり

 

 「気仙三十三観音霊場への招待―仏に出遭い 自らに出会う―」講演会も7回を重ねてきました。今年は、大船渡市立根町にある曹洞宗安養寺梅花講のご詠歌ご奉詠の後、春の徒歩巡礼を全日参加された方5名、岸浩子さん、澤田幸枝さん、船野章さん、松田惣喜さん、山田謙介さんにご登壇頂き、「観音めぐって 思いを巡らす―気仙三十三観音を歩いて見えてきたもの―」というテーマのもと、歩き参りをしたことによって気づいたこと、見えてきたものについてそれぞれお話し頂きました。

 

 また、「一日徒歩巡礼」は、大船渡カメリアホールにて、読経と「延命十句観音経」写経、そして佐藤善士先生の「日頃市の太子信仰」のご講演を伺った後、日頃市にバスで移動、お御堂と太子堂、そして長安寺と、地元日頃市在住船野さんの説明を伺いながらゆっくり歩きました。

 

 お御堂とは、浄土真宗門徒の家にあり、ご先祖をお祀りする御堂ですし、お太子さまも個人や集落が管理する聖徳太子を祀る御堂で、地元の方々でさえなかなか堂内に入ってお参りできない場です。船野さんの親類・縁者の人脈を頼って実現することができました。重ねて送迎バスの手配、運転までお願いしてしまいました。船野さんなくして今回の行事はできませんでした。とてもありがたいことです。私どもの活動のひとつとして、地元に埋もれている信仰の場を掘り起こすことも大切なことだと改めて感じた次第です。

 

 講演会、一日徒歩巡礼とも、今まで重ねてきた活動から紡ぎ出された人の輪によって形作られたものです。このような行事ができるほど私どもの活動も厚みを持ってきたのだと感慨深く思いました。

おなじみの方との再会も嬉しいですが、新たに参加頂いた方との出会いもこれまた嬉しい。「来春の徒歩巡礼に初めて参加してみようか」という声も聞こえてきました。次回の徒歩巡礼がまた楽しみです。

 

10月6日

上野駅(9:46)…大宮駅(10:05)(11:00)…一ノ関駅(13:00)(13:20)…気仙沼駅…(14:50)(15:00)…下船渡駅(16:00)…大船渡温泉…下船渡駅(17:41)…盛駅(17:51(18:09)…大船渡駅(18:13)…竹野さん宅(泊)

 今年の夏は、猛暑を越え酷暑だと言われた。西日本は39度という日が続き、外出もままならぬ日々であったという。東京もまた似たようなものであった。ところが…、彼岸が近づくと強烈な台風が毎週のように日本列島を襲い、各所に大きな被害をもたらした。それからはぐっと涼しくなったりまた暑くなったり。

 

 昨年の一日徒歩巡礼は台風が直撃して難儀であったが、なんと今年もちょうど台風とぶつかるとの予報が。日々変わる台風予報をやきもきしながらチェック、おかげさまで台風は日本海を進んだため気仙に影響はなかった。ホッとする。

 

 上野駅にて吉水さんと合流。この日は3連休初日、朝から駅はけっこうな混雑である。この時はJR東乗り放題の「3連休パス」がお得。予定の「やまびこ」の指定は一杯、しかし、なんと大宮で始発の臨時運転「はやぶさ」に接続することが判明した。無理なく輸送量を2倍にする、うまいことを考えるものだと感心しきり。

 

 大宮で「はやぶさ」に乗り換え腰を落ち着けると、人身事故でしばらく停車するとの放送が…出発予定時刻は、1時間後の11時だという。こういう時は同行がいると心強い。心をゆったりとし、あれこれと話に花を咲かせるが、なかなか動かない。動いたのは予告どおり11時すぎ。走り出してからも先行列車が詰まっているため、減速加速を繰り返しながらの運行である。

 

 当初の予定では早々と一ノ関に着き、駅前の食堂で名物ソースカツ丼でも食べようとのもくろみであったが、かなわず。でも大船渡線が待っていてくれたため、駅弁を購入し乗り込む。どこかで追い抜いた「やまびこ」を待って出発。常の如く大船渡線ドラゴンレールはのんびりゆったりと走り気仙沼へ。向かいのホームからBRT盛行きに乗り換え順調に走る。

 

 いくつかのトンネルを抜け走ると、右手には海が見渡せる。陸前高田市に入ると、見慣れた風景が現れ、巡礼のルートを目にし、ああ帰ってきたという感じがする。新市街地に立てられた新「陸前高田駅」を経て、大船渡へと進む。下船渡駅でおりると、常の如く線路沿いに住宅地を進み、国道へ出て大船渡温泉へ。もう何度歩いた道だろうか。連休初日であり大船渡温泉駐車場は一杯の車だ。フロントで回数券を購入。のんびり目の前に広がる大船渡湾を眺めながら露天風呂につかり17時に出発。どうせBRTも遅れているだろう、とゆったり歩いているとなんとBRTは数分前に出発してしまった。やってきた気配もなかったのに…と不思議に思う。一本遅い17時41分発。20分遅れた。

 

 盛駅5時51分着。ここで全日参加の河田みのりさんと合流。彼女は高校三年生の時に炊き出しに参加してくれて以来のおつきあいだ。現在、就職し職場が盛岡配属なので、連絡をとったところ参加してくれた。社会人になってから初めての再会、会うのは5年ぶりくらいか。「みのりん」がどんなアダルトな女性になっているかもひとつの楽しみであった。盛岡からのバスが10分遅れたそうで、あまり待たせなかったもよう。

 

 折り返しのBRTで大船渡へ一駅。竹野邸で鍵を借り、事前に送らせて頂いた荷物を受け取る。荷物を置き、寝床を敷いてから「大船渡夢横町」「天使の森」へ。

 

 「天使の森」は、以前仮設飲食店街「大船渡屋台村」にあったが、屋台村がかさ上げにより無くなってしまったので一時閉店、この度10月1日オープンした「大船渡夢横町」の一員として復活した。ずっと前から自分のお店を持ちたいとの店主森さんの「夢」が実現した。

 

 私は以前に引き続きお酒担当となる。いい焼酎をみつくろってまたお送りしたい。お店の入口には森さん親子の似顔絵が。中は屋台村のときと変わらぬカウンターに7人ほどのキャパ。店内には開店祝いで頂いたお花がいっぱいだった。森さんも娘さんも元気に店主を務めている。おつまみは、刺身、煮物、タマネギフライ、鯖の味噌煮など屋台村の時と変わらぬなつかしいもの。生ビールでのどを潤しながらぐいぐい食べる。

 

 7時過ぎに合流予定の藤沢さんは、新幹線の遅れが解消されなかったため1時間遅れで8時に到着。車中から送られてきたメールの返信には「私の法力で大船渡線に乗れるよう止めておきます」と記したが、やっぱり待っていてくれなかった。明日から修行に励もう。

 

 「みのりん」は営業の仕事が忙しいそうで、得意先を車で回りながらホテルを転々とした生活とのこと。家に戻るのは週末ぐらいだそうだ。鍛えられすぎだとは思うものの、ぐっとたくましく頼もしくなった。いろいろ話に花が咲き、お店を後にする。お店はいっぱいのお客様。にぎわいが戻った。

 

10月7日…一日徒歩巡礼

 大船渡カメリアホール〔10時スタート 、読経、「延命十句観音経」写経、10時半講話 佐藤善士先生「日頃市の太子信仰」〕…昼食(11:0012:30)…一日徒歩巡礼出発(11:30)…マイクロバスにて移動…日頃市・在家御御堂(13:00)…中村御御堂…首切地蔵…上の上太子堂…太子堂…長安寺…盛駅…大船渡温泉…船野邸…竹野邸(泊)

 朝5時に起きランニングをする。台風の影響を心配したのが嘘のように青空が広がっている。大船渡市防災観光センター、新市街地キャッセン、夢横町、スーパーマイヤ、魚市場など新たに作られた新市街地・施設を見学しながら走る。草ぼうぼうの荒れ地がかさ上げされ、コンクリートやアスファルトで覆われ、モダンな街が形作られた。以前の風景と二重写しにならず不思議な感覚だ。

 

 海からの風を感じながら、キラキラとした光を浴びながらの一時間。人の集う場所をひとところにぎゅっと集め、大船渡の街ににぎわいを創出してくれるであろう。気持ちよく走り、家に帰ると絨毯でのびのびストレッチ。みなさん徐々に起きてくる。

 

 今日必要な諸々の物を確認し、分担して持つ。観音様のぼり、写経用紙、筆ペン、巡礼マップ、巡礼のしおり、名札、観音様缶バッチ、施設使用費、鐘と木魚、謝礼、参拝費、バスレンタル代、供物など。落ちが無いか心配だ。ローソンで朝食。おにぎりなど各自購入。

 

 8時45分発のBRTで盛へ。9時大船渡カメリアホール開館。すでに船野さんがいらっしゃる。この日は、2階の和室60畳を使用する。メンバー全員で座り机、座布団、ホワイトボードを出し、写経用紙、筆ペン、マップを机の上に置いていく。新川さんも早々と来て手伝ってくれた。30分前になると続々と参加者が集まってくる。顔なじみの方、初めての方。20名程度を予想していたが、嬉しいことに人数が増え次々机をだすほどに。総勢32名となった。10分ほど前に佐藤先生到着。

 

 佐藤善士先生とのご縁は、「ウェブ版東海新報」にて『日頃市歴史物語』を出版されたとの記事を読んだことから繋がった。春の徒歩巡礼に参加された新沼さんに話したところ、数日してご本をお送り頂いた。御著書は中学校校長を退職されてから公民館の館長として、郷土の芸能や信仰、先人の功績についての講演や、古文書等を展示紹介するときにまとめたものがベースとなっている。時の移り行きとともに消えつつある故郷の大切な宝物を書物としてきちんと形に残された。故郷に対する愛に充ち満ちた本であると思う。

 

 日頃市の船野さんにお話ししたところ、「善士先生に今度話しをしておくから」ということで橋渡しをして頂いた。後日改めてお手紙を出し、講師をご快諾頂いたという次第である。

 

 

 また一日徒歩巡礼には、船野さんに、以前お連れ頂いた日頃市のお御堂、太子堂から盛駅まで歩くというコースはいかがかとご意見を伺ったところ、バージョンアップした今回のコースをご提案頂き、さらには先方との交渉、バスの手配、なんと運転までお引き受け頂いた。

 

 今回の行事は船野さんのご支援無くして成り立ち得ないことであった。この場を借りて参加者の方々共々お礼を申し上げたい。

 

 10時に行事スタート。簡単な挨拶の後、「巡礼のしおり」を使っての読経、続いて「延命十句観音経」の写経。今回「巡礼のしおり」改訂増刷をした。いつも直前にあくせくコピーしていたので楽になる。何度も参加された方が多いので、読経の声も大きく、写経もスムースに書かれていた。

 

 佐藤先生のご講演は、「日頃市のお太子信仰」について。大船渡市の北西に位置する日頃市町は、霊峰五葉山の山裾にあり、山林が9割を占めるため田畑は少なく、先人は粟や稗を食べる苦しい生活を送っていたという。

 

 江戸時代は150戸程度、明治には200戸、今は680戸と人口が増えていった。その暮らしを支えていたのは、五葉山神社など26社を数える神社、お御堂9軒、お太子さま3軒、オシラサマ7軒と多くの信仰の場があることからも分かるように、自然崇拝や神仏への帰依であった。今なお、権現様、剣舞、鹿踊り、気仙神楽などの郷土芸能もしっかりと伝承されている。

 

 これから参る鷹生のお太子さま、小通のお太子さま、お御堂、長安寺について説明があった。鷹生のお太子さまは、俗称ヨバイタイシと言われ若い衆の交際の場であったそうだ。もとはお御堂に祀っていたが、今は、内陣を奥座敷にそっくり移してお祀りされている。現在は菩提寺の安養寺のご住職にお願いし「お取り越し(報恩講)」をして親類で拝んでいる。オシラサマも祀られており、「天文十年(1541)十一月」の銘があり県内最古のものである。

 

 小通(おがよう)のお太子さまは別称イモダイシと言われる。これは山芋をお椀に盛ってお参りに来た人に振るまったことから付いた名という。三間四方の立派な御堂で中には孝養太子の木造が祀られる。ここには12体のオシラサマがあり、着物を着せ替えるオシラサマアソバセも行われているという。予備知識を得てから現地を歩くというのは理解も深まってよい。

 

 講演終了後、各自で昼食。持参されている方もいれば、買いに行かれる方も。お昼時を外して12時半過ぎにこちらを出る予定であったが、手違いがあり10人乗りのマイクロバスしか借りられなかったそうで、3往復しなくてはならなくなった。ということで、準備ができた方からバスで移動して頂く。ありがたいことに新川さんも車で送ってくれる。残っている皆さんにも手伝って頂き、机や座布団の片付けを行う。

 

 我々はサンリアでお買い徳寿司500円の昼食。けっこううまい。さらにおにぎりを頂戴する。先行した皆さんは、運転をして頂いている船野さんが口をきいてくれ、鷹生公民館を開けて頂き中で待たせて頂くことになった。困ったことは誰があちらに向かったか把握できなかったこと。私たちが乗った最後の便で全員移動したのか不安であったが、一人帰られた以外すべているのがわかりホッとする。

 

 公民館の周囲は柿の木がたくさんあり、どの木もオレンジ色の実がたわわになっている。強い風に激しく右に左にと揺さぶられ、落ちてしまうか心配なほど。

 

 鷹生公民館に入ると奥には立派な舞台がある。ここは「気仙法印神楽」が披露されるところで、つい先日多くの方が集まり神楽が奏された模様。ポスターが張られていたのでそれと分かった。みなさんここそこにかたまっておしゃべりしている。和気藹々とした雰囲気だ。

 

 ここでもいちじくの甘露煮やりんご、おにぎりなど頂戴する。おなかいっぱい。全員集合すると、ちょうど予定の13時になった。船野さん先導で在家お御堂へ出発。

 

 鷹生公民館を出てすぐ在家お御堂。船野さんの母方の実家だそうだ。他のお御堂も当たってくれたそうだが、個人のものに知らない人がお参りに来るのは…と断られたことが度重なったと伺った。2箇所のお御堂をお参りできよかった。

 

 お住まいの隣に建っている横一間奥行き二間はあろうかいう立派なお堂。この日参加の30名がそっくり入ってしまった。

 

 

  仏壇の正面には阿弥陀様が据えられ、手前の長押には亀の絵が掲げられている。真宗は円柱のように整えた仏飯を捧げるそうだ。昔は竹の筒をくりぬき、その中に飯を入れ、ところてんのように押し出す道具でもって円柱の形にしているとのこと。いろいろな風習がおもしろい。

 

 

 全員で読経。お家の方に缶の甘酒をご接待いただく。お参りさせて頂いたうえにご接待まで…。ありがたいことだ。すぐ隣は「お留藪」。伊達藩直轄の地であったこの地は、とても良質な竹が取れ弓などに使われたそうだ。よってお上の許可を得ないと家の者でも竹を切ることが出来なかったという。

 在家お御堂から数分で上の上(うえのじょう)太子堂へ。道路には木製の案内板が各所に設置されている。でも、一般のお宅の中にお太子さまが祀られているとはなかなか分からない。

 

 佐藤先生の話にも登場した「ヨバイタイシ」だ。以前は母屋の脇に立派な太子堂があったそうだが、老朽化のため今は母屋の奥にお太子さまが祀られている。

 

 

 脇には県内最古「天文十年(1541)十一月十日」の記念銘がある二体のオシラサマがあり拝ませて頂く。「オシラサマ」の「オシラ」とは蚕の異名で、養蚕の神様としてだけでなく、農業、安産、眼病、馬、子供守りなど様々なご利益をもたらす神として祀られてきた。日頃市には7戸に伝わっているそうだ。

 

 『遠野物語』にもオシラサマは登場する。昔、ある農家の娘が、家の飼い馬と仲が良くなり、ついには夫婦になってしまった。怒った父親は、馬を木に吊り下げて殺してしまう。それを知った娘は馬の首に飛び乗ったまま空へ昇り、オシラサマになったという話である。

 

 後日談として、父親の夢枕に娘が立つと、「3月16日に臼の中を見て欲しい。そこにいる虫を私だと思ってかわいがってほしい」と告げた。その虫に桑を食べさせると繭を作ったという伝もあるようだ。

 

 こからまた数分で、中村お御堂。ここも船野さんの親戚。こちらも母屋に付属した立派な御堂で、参加者全員が部屋に上げさせて頂く。そして、お家の方に昔話を伺った。お家には昔たくさんの宝があったそうだが、古道具屋に全部売ってしまい、子供の頃は刀二振のみが刀掛けに掛かっていたそうだ。縄を張ってはそれを刀で切るという遊びをしてとても怒られたそうだ。

 

 このお宅は、日頃市村代十六代村長中村善之助氏を当主としていた。その父善助は漢方薬「陀羅尼助」の製法を学び、家を隆盛に導いた。昔、薬売りが日頃市鷹生に住み着いた。中村家が宿の世話もしたそうだが、その後、その薬売りが一家を構えるに辺り、中村家の分家として独立。そのお礼として「陀羅尼助」の製法を伝えられたという。「陀羅尼助」は、キハダという木の幹にある黄色い薄皮を煎じて作るもので、胃薬としてまたひび割れをするときに張る膏薬としてたいへん重宝されたそうだ。今なお薬研や秤、釜などが残されている。

 

 佐藤先生の講演において、日頃市の先人は「粟や稗を食べる苦しい暮らし」をしていたと話されていたので、この立派な祈りの場とのギャップに驚いたが、金山があったことにより豊かな家があったのこと。確かに、北には坂本沢金山が、南には今出川金山があるので物や人が行き交った土地なのであろう。

 

 峠を越え下りにさしかかると左手の斜面上に船神社が。ここは船野家の氏神様で室町時代には創建されていたそうだ。船野さんが子供の時、元朝参りには親に連れられ船神社、金比羅様、五葉山神社、八幡様などを巡ったと伺った。オサカリには、女性たちが集まって煮物やお菓子を持ち寄って過ごしたと伺った。すぐ先が金比羅様。寺沢さんが子供の頃は、日頃市の駅から馬車でお参りに来たそうだ。いろいろな思い出が充ち満ちているところ、思い出に包まれて安心できるところが「ふるさと」なのだろう。

 

 これから坂道を上ると峠の脇に首切り地蔵が祀られている。

 

 昔、吉浜城と松館城の城主は兄弟であったが、仲違いをしてしまった。祝い事があったとき、松館城主が祝宴に招待されたとき、お膳に箸がなかった。これはいやがらせかと思い、小刀でお膳の縁を切って箸を作って食事をした。帰途についた折り、この峠にさしかかると突然二人の侍が籠の両脇から槍を突き刺し殺されてしまった。それを哀れに思った地元の人が地蔵様を建てたが、首が切れてしまうので「首切り地蔵」と名付けられたという。

 

 改めてお参りすると、上下逆さまになって埋められていた。本の写真には、本来のある頭を上として祀られていたので、誰がどのような意図でこのようなことをしたのか、謎が深まるばかり、不思議だ。

 

 小通の太子堂へ。階段を上って参る御堂は、三間四方の立派なものである。正面には大きな孝養太子の木像が据えられている。普段は御厨子の扉は閉じられているが、特別に開けて頂きお参りできた。堂内には、「聖徳太子意趣書」や大絵馬が掲げられている。十二体のオシラサマがあり、オシラサマアソバセも行われているそうだ。

 

 この小通(おがよう)の地は、土地が肥えたところだそうで、盛の朝市に野菜などを出店している家が多いという。もう足がくたびれてきた人もちらほら。解散予定の4時近づいてきたので、数名は新川さんの車で送って頂く。

 

 長安寺にようやく到着。長安寺は850年の歴史を持つという浄土真宗の寺。十八間四方という大きな本堂は、中に入ると広い外陣、正面の須弥壇には阿弥陀様が祀られ、内陣の欄間の彫刻も荘厳で圧倒される。山門は高さ17.5メートルという大きなもので、総欅造り。

 

 建立当時こんな逸話がある。欅は仙台藩の許可を得なくては使用できないお留木であったため、おとがめを受け取り壊しが命ぜられたが、欅でなく槻の木であり、山門でなく釈迦堂であると弁明した。取り調べが繰り返され、百叩きの拷問にもあったが、決して自説を曲げなかったため、取り壊しを免れたという。現在も山門二階部には釈迦像が安置されているそうだ。

 

 ここから盛駅までラストスパート。途中三々五々お別れする。各所で船野さんの説明を頂き、有意義なお参りになった。またこの以上の記述には、『日頃市歴史物語』も参考にさせて頂いた。

 

 盛駅で解散し、我々は新川さんに送って頂き、大船渡温泉へ、5時半到着。ゆったりと一日の疲れを癒やす。風が強かったため、露天風呂は使用不可。船野さん宅訪問7時と約束していたので、遅れる旨を連絡すると迎えに来てくれるという。誠に申し訳ない。

 

 6時40分、女性2人が上がってきた頃、佐藤忠清さんが到着。高速道に乗って日頃市へ。船野邸に7時過ぎに着くことが出来た。船野さんには何から何までお世話になった上ご馳走にあずかってしまい申し訳ない。といいつつ、お刺身、サンマ塩焼き2尾、炒め物、つみれ汁、お手製のくるみ餅、おこわのおにぎりとすべておいしく頂く。ビールに地酒「酔仙」美味。でもおなかがいっぱいで食べ尽くせないのが申し訳ない。あたたかな空気に身をひたし、おいしい物を頂き至福のひとときであった。

 

 玄関にはクルミがたくさん干してあった。川原で拾ってきたとのこと。これをひとつひとつ割ってすり鉢でごろごろ挽いてあの濃厚な味わいになるのだ。心のこもったくるみ餅、味わいひとしおである。帰りも竹野邸まで送って頂く。今日の良き一日を味わいながら眠りに就いた。

 

10月8日…「講演会 ―気仙三十三観音霊場への招待」

大船渡カメリアホール(10:0012:00)「気仙三十三観音霊場への招待」講演会、安養寺梅花講御詠歌奉詠奉詠、シンポジウム「観音めぐって 思いをめぐらす―気仙三十三観音を歩いて見えてきたこと―」岸 浩子さん、澤田幸枝さん、船野 章さん、松田惣喜さん、山田謙介さん、司会 吉水岳彦さん〕…龍華にて講師諸氏と会食…陸前高田アバッセ「伊東玖書店」…一ノ関駅…上野駅

 5時過ぎに起き、この日は昨日と反対の盛方面にランニング。盛の商店街を抜け、盛川の河川敷をぐるっと回って1時間。盛近くの川べりの工業地帯には初めて。まだ見ぬ風景がたくさんある。帰ってからストレッチ、その後みんなで部屋の掃除。丁寧に掃除機を掛ける。この日の朝食は、昨日船野さんから頂いた「くるみ餅」と炊き込みご飯のおにぎり、森さんから頂いた「なべやき」だ。おなかいっぱいになる。竹野邸に鍵を返しに伺い大船渡駅へ(8:45)。

 

 すぐ盛駅着(8:49)。講師の松田さんがいらしている。発表内容についてお話しを伺う。みんなで舞台下から椅子を引き出し並べていく。果たして何人来てくれるのだろうか。

 

 2階の畳の部屋では、安養寺さんのご詠歌講のみなさんが早々と集まっておさらいをしている。マイクのチェック、緞帳の上げ下ろし確認、プロジェクターセッティング、受付机設置。受付では、観音様バッチと霊場マップをお渡しするようにした。

 

 光照寺高澤ご住職が早々といらっしゃる。この度、気仙三十三観音応援ソング「風になれたら」CDが完成したので、受付にて販売していただくことになっている。「東海新報」にも前日CD完成の記事が掲載された。みのりんは、震災後、学生ボランティアとして陸前高田を訪れた際、光照寺に泊めて頂いたそうだ。高澤ご住職も再会を喜んで下さった。安養寺のご住職にもお会いしご挨拶申し上げる。突然の電話でのお願いにもかかわらず快くお受け下さった。

 

 開始時刻が近づき徐々に席が埋まっていく。城玖寺のご住職、長谷寺ご住職など霊場の方もいらしている。巡礼に参加頂いた方を中心に60名ほどの参加。

 

 いよいよ、講演会スタート。まず福田からスライドを写しながら今年度の活動報告をお話しする。

  1. 第四番 要害観音堂再建について
  2. しまたけひと作、漫画『てくてく気仙三十三観音参り』刊行について
  3. 気仙三十三観音霊場マップ改訂増刷について
  4. しまたけひと画、気仙三十三観音霊場てぬぐい作成・販売について
  5. 気仙三十三観音巡礼応援歌「風になれたら」CD作成・販売について

の5点である。

 

 続いて、安養寺梅花講20人ほどでのご詠歌奉詠。舞台は一度緞帳を下げてスタンバイ。緞帳が上がるとみなさん緊張した面持ちでお座りになっている。そろいの紺地の上着が映える。観世音菩薩御和讃、観世音菩薩御和讃(慈光)、観世音菩薩第二御和讃の三曲をお唱え頂く。

 

 「観世音菩薩御和讃」から、「お慈悲の眼(まなこ)あたたかく まどかに智慧は満ちわたる この世の母の御姿 南無や大悲の観世音」。

 

 次に「観世音菩薩第二御和讃」から、「見わたせば 功徳の海によせかえす ひとつひとつの 波のきらめき」。

 

 慈悲の光を浴びているような温かな詞だと感じる。それが、鉦と鈴の厳かな音と重なり合い響き合いしみじみとした趣を醸し出している。奉詠が終わるとみなさん晴れ晴れとしたお顔で客席に下りてこられた。後で感想を伺ったところ「いつもやっている曲だけどとても緊張した」とおっしゃっていた。

 

 いよいよ、シンポジウム「観音めぐって 思いをめぐらす―気仙三十三観音を歩いて見えてきたこと―」が始まった。発言者は、小友町 岸 浩子さん、住田町 澤田幸枝さん、日頃市町 船野 章さん、横田町 松田惣喜さん、米崎町 山田謙介さんである。みさなん、6日間の徒歩巡礼を成満された方、気仙各所からお呼びした。発言は苗字のあいうえお順。司会の吉水岳彦さんにマイクを渡す。

 

 まずは岸浩子さん。震災後、多くの方から寄り添いをして頂いたが、その思いを受け止め前に進んでいく姿勢を「かたち」として表したいと巡礼に参加したとのこと。歩けるかという不安より是非歩いてみたいという思いが勝ったという。接待頂いた方々の温かさ、地元気仙の春の美しい風景、故郷の先人に歩き継がれてきたという歴史、加えて人生のお手本となる同行の方々との出会いの嬉しさありがたさに背中を押され、無事結願の浄土寺にたどり着いた。最後に、来春の巡礼に参加しようという思いは、日々の「やる気」「生きる力」につながっているとおっしゃった。

 

 次は澤田幸枝さん。いつかは行きたいと思っていた四国遍路、しかし遠いこともありなかなか実現は難しい。「東海新報」の記事で地元・気仙にも観音霊場があると初めて知り参加を決めたそうだ。歩くことで故郷の風景をじっくり見ることが出来、復興の進捗状況も観察できたとおっしゃった。巡礼では、なべやきや牡蠣汁、つけものなど多くの接待を受け、それらの物を同行の方々と共に「食べ合った」その喜び、そこから生まれる「いたわりの連帯感」、巡礼は「人生の一歩の踏み出し」とも呼べる時であったそうだ。巡礼から生まれたつながりを大切に来年もまた参加したいと述べられた。

 

 そして船野章さん。霊場のお勤めの時にお唱えする「開経偈」の「無上甚深微妙の法は…」、「総回向偈」の「願わくはこの功徳をもって…」をかみしめ味わい歩いたことを述べられた。子供の頃、おばあちゃんに「人に恩を売ってもその人に返してもらおうと思ってはいけない。他の人に恩を振り分ければ子孫がいいようにしてもらえる」と言われたこと、年を取り白髪になった今改めて親の恩をかみしめることが出来るようになったことをお話しされ、この様々なものへの感謝の思いが仏教の神髄、日本の伝統ではないかと話された。巡礼も同行と手を取り合いながら与え合いながら歩く大切さを学んだとされた。

 

 その次は松田惣喜さん。大きなコンテナ船で世界の海を航海してきた中で、海流と風の関係や荒天により海が荒れ何度もひやっとしたこともあったが、「人事を尽くして天命を待つ」をモットーとして精一杯仕事をしてきた。困難を乗り切ったときは「自分だからこそ、この難局を乗り越えることができた」と思ったこともあったという。無事定年を迎えられ巡礼に参加された時、初めて心にゆとりができて、来し方を振り返ることができた。すると自分の力だけではなく、家族、仲間、先祖、観音様など、我が身を守ってくれた存在のお陰で今があることに気づき、感謝の思いが湧き起こったと話された。

 

 最後に山田謙介さん。東海新報社主催「気仙ものしり検定」一級を受けたとき、観音霊場についての問題が多かったことにより巡礼に参加しようと思ったそうだ。「ものしり」の山田さんは、「宝物」のたたら製鉄の時に使うコークスや大きな石英を見せてくれた後、前日歩いた日頃市を中心とした知識を披露してくれた。気仙の金山について、日頃市の竹林が伊達藩のお留藪になっていたこと、太子信仰や別当・当宮について、陀羅尼助についてなどユーモアたっぷりにお話しされ会場を沸かした。最後に「気仙の宝」を公的機関がもっと力を入れ、子孫に残すよう尽力すべきと力説された。

 

 まとめは吉水岳彦上人。それぞれのお話しをまとめた後、観音菩薩とは世の中の「憂悲苦痛」の「音」を「見る」が如く、どの人の側にも居て寄り添ってくれる方である。観音のつくりは、コウノトリの形を模したもの。「観」の字は、コウノトリのように大きく目を見開いて、今まで見てきたもの、いま見ているものを注意深く思慮深く見ていくことを表している。観音さまをお参りしながら、様々な方に出会いながら、後生にこの豊かさを伝えていくこと、幸せに暮らしていくこととはどういうことかについて、よく目を見開き、心を養っていけるような活動になったらと考えているとまとめられた。

 

 発言者の方々はそれぞれのお立場から「歩き参りをして気づいたこと、見えてきたこと」について率直なお話しをうかがえたと思う。講演会を聞いて来年参加しようかしら、とおっしゃった方がいたのは嬉しい。みなさんにお手伝い頂き机や椅子を片付ける。

 

 発言者の5人と新川さん、吉水さん、藤沢さん、みのりと私で近くの中華「龍華」へ。初めて伺う。予約の時に「ちょっと一杯セット」を用意しておきます、と言われ内容も分からなかったが、餃子、春雨スープ、酢豚、焼きそば、唐揚げ、チャーハンと次から次へと出てきてびっくり。これで一人1500円は安すぎ。おなかいっぱい。

 

 みなさん巡礼仲間、ワイワイとても盛り上がる。みのりが13時22分のバスで盛岡に帰るので13時に解散。来春の再会を約束する。

 

 私たちは新川さんの車で高田の新市街地アバッセ内の伊東書店へ。岸浩子さんが掛け合ってくれ「観音霊場てぬぐい」を置いて頂けるようになった。そのご挨拶。後日、相談の上回答頂くことを約した。いろいろご縁をつなげて頂きありがたい。

 

 伊東書店で『小さな宿場町さかりの歴史―ふるさと気仙―』三浦日出夫著を購入する。昨年新川さん宅で頂いた盛のうなぎや「みうらや」のご主人が書いた本である。佐藤善士先生の『日頃市物語』然り、気仙の方々は郷土愛がとても強い。帰ってから読むのが楽しみだ。

 

 それからなんと新川さんに一ノ関まで送って頂く。片道1時間半、往復3時間。時間のお布施を頂きありがたい。日頃市の風景や講演の内容を思い返しながら、過ぎゆく車窓の風景をぼんやり眺めていた。早々と一ノ関着。新幹線の指定を取り直し予定より一本早くする。駅前の庄屋でのどを潤し反省会。よき3日間であった。次回の気仙行きは年明け三月。今から春の巡礼を心待ちにしている。