期 間:2014年10月11日(土)~10月13日(月)2泊3日

《光照寺さまにて講演会・一日徒歩巡礼「長部三観音を歩く」》


 秋の行事は、講演会と一日徒歩巡礼。今年は光照寺境内に再建成った坂口観音堂にお参りいただこうと、光照寺さまを講演会の会場とした。光照寺ご住職高澤公省老師の御法話、光照寺梅花講のご詠歌奉詠というプログラムで「気仙三十三観音への招待  仏と出遇い 自らと出会う」講演会を行った。参加者は残念ながら30名程度であったが、御法話では坂口観音堂の歴史的な経緯と観音様のご功徳についてお話しいただいた。ご詠歌は、観音様にちなんだ曲を3曲。南こうせつ作曲のフォークのようなご詠歌とバラエティーに富んだ曲を奉詠していただいた。


 そして一日徒歩巡礼は、長部三観音を歩いた。一日徒歩巡礼は昨年初めて実施したが、チラシの「徒歩」を見落としていたという方が多数いらっしゃり、「歩くなんて知らなかった」「あんな遠いところまで歩いたことがない」などの話が聞かれ、満蔵寺さまをお参りしてすぐに2人がお帰りになったし、行程半分程度の長桂寺でギブアップ、以降バス巡礼となってしまった。ということを踏まえ、今年は、長部コミュニティーセンターにて、要害観音堂の聖観音像にお出まし頂き、法話と延命十句観音経の写経、そして昼食、午後は語り部の実吉さんの解説を各所で聞きながら、古谷観音堂、上長部観音堂とお参りをし、およそ3時間程度の徒歩巡礼となった。「30年ぶりにお参りした」「お堂の中に入ったのは初めて」「何度も来たが観音様を初めて拝んだ」など地元の方でもいろいろな発見があったようだ。楽しくおしゃべりをしながら歩くことができた。

 10月11日

上野駅(7:22)…一ノ関駅(9:33)…昼食(11:30)…光照寺(12:00)…開場(12:30)…開始(13:30)〔法話・ご詠歌・坂口観音堂ご開帳〕…講演会終了(15:00)…撤収完了(16:00)…竹野さん宅

 2週間連続の台風来襲。果たして行事を行えるのか一週間前からヤキモキ心配していたが、台風の速度が遅いためなんとか出来そうだということがわかりホッとする。


 よし、気合いを入れ5時に起床。朝食をとり7時に上野駅中央口集合。岳上人集合時間を間違えひやひやするが、なんとか7時16分到着。ホームに降りていったらちょうど新幹線が入線する。いやいやよかった。7時22分発。今日は午後から講演会があるのだ。おわびにと「お~いお茶」をごちになる。台湾の仏教教団が経営している病院の話を興味深く聞く。病院内に「往生室」があり家族、親族が7時間お念仏をお唱えするのだとか。医師や看護師とともに僧侶が終末期医療を担っているというのも日本とはだいぶ違う。でもこのような体勢が出来たのも数十年前だそうだ。ということは、まだ日本も変われる可能性があるということでもある。あれこれ話しているとすぐに一ノ関に到着(9:33)。


  駅レンタカーでワゴンRを借り、陸前高田へ。11時10分には竹駒到着。陸前高田未来商店街で昼食をと思ったが、まだちよっと早い。隣のスーパーマイヤ駐車場はなぜか大勢の人でぎっしり。なんと福田こうへいさんのコンサートがスタート。大型トラックの荷台を開くとステージになるという優れものを使用する東北巡回ツアーのひとつだそうだ。福田さんは、岩手県の出身で、紅白にも出場、レコード大賞新人賞も受賞という実力者だということで、ハート型のプラカードを振って応援しているおばあさん、全身で拍手をしているおばあさんもたくさんいる。大変な人気で警備員さんも大忙し。


 私たちは11時半に「てるてる」にて昼食。私は穴子天丼、岳上人はカジキのカマの煮魚定食、藤澤さんはサンマの塩焼き定食。どれもボリューム満点。穴子は一本使用、サンマも皿からはみ出る大きさ。カマもころっと身がとれるほどの太いもの。すぐに10人ほどの団体が入店、さらに予約が10名入っているそうでおおにぎわいだ。十分満足して光照寺へ。


 気仙川右岸の山を崩し、土砂を運ぶためにかけられた「希望の架け橋」がたこの足のようにあちこちに伸びている。確かに経費がかからずと工期が短くなるそうだが、無機質で「希望」という言葉の持つイメージとは違う。高田の原風景が無くなり、別のものへとどんどん変容していく。何もなかった荒れ地は各所で道路が通行止めになっていた。土を盛り市街地を造成していくための措置なのだろう。なにか心がざわめく。


 12時過ぎに光照寺着。再建された坂口観音堂の前に、金剛寺さんご夫妻や檀家さん、高澤ご住職がいらっしゃるのでご挨拶。本堂内で準備を開始。といっても椅子やプロジェクター、スクリーンなどご準備いただいてしまった。会場をお借りしたばかりか、御法話をお願いし、はたまた準備までしていただき、感謝、感謝である。


 お茶を頂いた後、講演会で配付するマップ、アンケート用紙、鉛筆等をクリアファイルに組む。金剛寺さんにもお手伝いいただく。徒歩巡礼に参加してくれた新川さんも手伝いに駆けつけてくれた。彼は例の如く法螺貝を一吹き。


 1時から「第3回 気仙三十三観音への招待 仏と出遭い 自らと出会う」講演会スタート。20名程度の参加か。もっと人を呼び込む手だてを考えなくてはならない。司会は岳上人。


 はじめに私が、会の活動内容報告旁々「徒歩巡礼余滴」として小松峠の観音さまに出遭うまでのお話しをした。小松峠は、昔、住田の上有住と大船渡の日頃市とを結ぶメインルートであったこと、昭和10年頃までは峠の茶屋があり茶屋の先には観音様を祀った祠があったこと、その観音様は小屋をやっていた方の子孫が、いま仏壇でお祀りしていること、その仏さまは観音様ではなく実は大日如来像であったことなどなど。みなさん結構興味を持って聞いてくれたようだ。


 次いで光照寺梅花講のご詠歌奉詠。講員の半数に当たる10名が参加してくれた。高澤ご住職の説明中に「唱え奉る…」と始まってしまったが、「まだ、まだ」「今日は皆さんの前なのでだいぶ緊張しているんですよ」と笑いを誘う。「観世音菩薩和讃」「まごころに生きる」「震災復興祈願御和讃」の3曲。「まごころに生きる」は、新曲で南こうせつさんが作ったものだそうだ。鈴と姃が入ったフォークミュージックという感じで新しい感じだ。一生懸命にお唱えいただいている姿がとても印象的だ。


 退堂してから控え室で記念品をお渡しする。何が良いかとあれこれ考え、これから寒くなるので暖かくなるものがよかろうということになり、巣鴨とげ抜き地蔵参道にある赤パンツで有名な「マルジ」の赤腹巻きにした。みなさんニコニコして喜んで下さった。それにしても真っ赤っ赤な派手さである。赤腹巻きは免疫力が高まるそうなので、風邪など引かぬように過ごしていただきたい。後日、徒歩巡礼にも参加いただいた方が、藤澤さんに「ホラ」と服をめくって赤腹巻きを見せてくれたそうだ。


 椅子等を片付け、高澤ご住職の御法話「坂口観音周辺と観音様の願」となる。光照寺境内に再建なった坂口観音堂は、江戸時代の初め、千福寺観音と呼ばれていたという。

 

 千福寺は、慶長10(1606)年、今泉の金剛寺によって本丸付近に建立されたが、時は流れ、明治5年には廃寺となる。千福寺の縁起は、「鶏養山千福寺由緒昌記」によって知ることが出来き、平成8年には小冊子として刊行された。

 

 




 昔、金剛寺が高田村にあったとき、福次という方が庵を構えて暮らしていた。福次さんは鶴を愛しかわいがっていたが、亡くなってしまう。その鶴も、主人後を追うように死んでしまった。村人たちは金剛寺に願い出で庵を祈願所とし、千福寺と改めた。これが千福寺の起こりという。やがて無住となったが、行脚の僧が住み着いき、光照寺第十八世のとき、千福寺観音堂の別当寺となり今日に至る。


 過日、高澤老師が庫裡の荷物を整理していたとき、千福寺観音堂の棟札が見つかったそうだ。それには、正徳元(1711)年に建立され、22世の住職が導師をつとめたと記されていた。


  震災後、たくさんのがれきに阻まれ、坂口観音堂にはすぐには行けず、ぐるっと回り道をしてようやくたどり着いたときのこと、お堂は残っていたものの、堂内外にはがれきが押し寄せていた。堂内あるべき場所の一メートル前に観音様がこちらを向いてお立ちになっていたという。外に出るとお堂の前のがれきの中にキラキラ光るものが眼についた。それはピン札の1000円札であった。札を拾ってふと見ると観音堂の姿が目に入った。もしかしたらみなさんのお布施として頂いたものなのではないかと思った。もしかしたらそう思わせたのは観音様なのかも知れない。


 『観音経』には「念彼観音力」と記される。不都合のことに出遭っても観音の力を念ずればお力を頂くことが出来る。観音様の願いを自らのものとして受け止め、観音の思いに一体となることが肝要であり、観音を念じて巡礼をすることとはまさに観音と同化する行為に他ならない、というお話しであった。会終了後、坂口観音堂の扉を開けていただき、観音様の間近でお参りをした。


 それから光照寺さまの秘密の隠れ家にて一時間ほど歓談し、大船渡に向かった。この日は、いつもお世話になっているオーシャンビュー丸森にて入浴。


 宴は、大船渡駅より海側にある荒涼たる地域にぽつんと建つ海鮮料理うら嶋に初見参。土曜の夜で大変な込みようであった。いつものようにお魚を頂き、酔仙を飲んで満足。

 

 10月12日(日)

竹野さん宅…大中仮設…サンマラーメン黒船…釜石大観音…鵜住居観音…吉浜津波石…遊YOU亭夏虫…竹野さん宅

 この日は、午後から気仙三十三観音霊場再興に向けての会議が関係諸団体の方々ともてることになっていた。「祈りの道」再興プロジェクトとしては、会議の席上において、気仙三十三観音霊場ご開帳を提案する予定であったが、いまだ時期尚早というべきか、二市一町の足並みがそろわず、参加人数が少ないため流会となってしまった。


 機が熟するのを待ち、出来るだけ早くご開帳を行いたい。せっかく会議のための資料を用意したので、ここに掲載させていただく。

 

「気仙三十三観音霊場ご開帳」について(ご提案)

 

目 的

 気仙三十三観音再興プロジェクトを始めて2年半近くが経とうとしている。いままで、講演会、一日徒歩巡礼等を実施してきたが、参加された方は延べで250名程度であろうか(講演会約100名、徒歩巡礼約25名)。活動の度ごとに東海新報社に記事を掲載いただき、徐々にではあるが地元気仙に「気仙三十三観音霊場」の認知があがってきていると感じる。この度、気仙の方々に、より強く気仙観音霊場参拝をアピールし、実際足を運びお参りいただく機会としてご開帳をご提案したい。また、地元の方々にもお手伝いを頂くことによって多くの方々と触れあう場が出来、地域の活性化にも寄与できるのではないか。

 

現状把握

 霊場巡礼には御納経・御朱印が不可欠である。この度、東海新報社に霊場名等の揮毫をあらかじめ印刷してあるとともにガイドブック的な役割も果たすことが出来る。オリジナル納経帳の作成・販売を打診申し上げ、作成の方向でご検討いただいているとのお言葉を頂いた。霊場の3分の2が兼務寺や別当家の管理や正住がすまわっていないという現状を考えると、納経印・朱印を可能にするには、オリジナル納経帳製作とともに、ご開帳期間を設けて地元の方々にお堂に詰めていただき、押印していただくことが必要であろう。

 

実行計画案

①主 催:霊場会の組織が難しい現状を鑑みると「三陸けせん観光協議会」となるのか。 

②期 間:①3日間 ②5日間 ③1週間

 ご開帳とは、33年、12年、6年など場所によって様々である。期間も、1年、1ヶ月など。協力いただく方に負担をかけないというのなら3日間、県外からのツアー客を呼

び込むのなら一週間か。

 

時 期

①3月11日から

②3月27日(金)から

③5月初旬

 ①3.11から慰霊のための観音巡礼を行うという考え。②3.11はまだ寒い時期でなので少し遅らせる。またご開帳期間に徒歩巡礼を行うと多くの方に歩く姿を見ていただけるのではないか。高校の春休みに入るのが3月24日である。③暖かくなって桜が咲き美しい季節にお参りしてもらう。

 

時 間

①10:00~16:00(各霊場への配置に時間がかかる)

②9:00~17:00

 

内 容

 ご開帳期間には、霊場に数名の人が詰めて、朱印を押したり場所によっては茶菓の接待を行う。一日一人でいるのはつらいので、最低二人で一組としたい。お手伝いの方をお願いするのが大変である。

 

必要なもの

①納経帳 オリジナルの納経帳を作成する。本屋等での事前販売。期間中も各観光協会やいくつかの霊場にて販売する。

②のぼり旗(5本×33=165枚)わかりにくいので霊場前など要所に立てる。

③以前各霊場に配布した朱印と角印  各霊場にあるか確認する。

④スタンプ台

 

人 員

各霊場に配置が必要かどうかお尋ねする。

 4番 要害観音堂     要害公民館をお借りできないか。

 9番 羽縄観音堂     堂内狭く中に居ることが出来ない。

 28番 立山観音堂     朱印をどこに置くのか要検討         

 

今後の課題

①のぼり旗について お堂の周囲、国道からの曲がり口などに目印として幟旗を立てたい。200本は必要となる。在京県人会の方などに一枚3,000円で寄付を募る。お手伝いいただいた方の謝礼や事務経費、残金が生じれば霊場マップの作成等に使用できるのではないか。

 

②各霊場の朱印・角印の確認(金剛寺さんの兼務寺それぞれに印があるか、泉増寺、常膳寺、田束、すべてを金剛寺で押してしまうのか確認)

 

③バス会社が登録しているイベントサイトに情報を提供すると、情報が拡散する。現在、旅行会社より働きかけがあり、来春に被災地ツアー第4弾として気仙の観音霊場をからめたバスツアーが来ることになっている。ご開帳を踏まえて気仙霊場ツアーも組みたいとの意向があった。ちなみに津軽三十三観音霊場は今でも年間5,000人ほどの参拝客が来るとのことである。

 

④霊場の管理者の方々を集め会議を開く必要がある

 

⑤新たに作成する納経帳以外のものを持参した方に対する揮毫・朱印を記した用紙を用意する(別当管理の霊場は印刷配布している)

 

⑥秘仏を無理に開帳していただくことはないのではないか。よって「ご開帳」という名称を使わない方がよいかもしれない。「ご開扉」「回廊」など


 さて、朝5時に起き周囲をマラソン一時間。この辺りについてだいぶ詳しくなった。キーンと冷えた空気が心地よい。帰ってストレッチしていると皆さん起きてくる。

 

 いつものローソンで各自おにぎりなどの朝食を取り、9時前に大中仮設に行く。よく伺う方の旦那様が突然お亡くなりになってしまったのでご弔問。我々の行事にもよく顔を出してくれた方だった。3人でご供養をする。お仕事のこと、家庭でのお姿について、子供たちのことなどなどいろいろお話しを頂いた。

 

 11時発。その後、仮設の集会所を皆川さんに開けていただき、観音様に法楽を捧げる。この日は日曜日支援員さんはお休みだ。皆川さん久しぶりにお会いする。130戸あったこの仮設がいまは75戸くらいになっているそうだ。8月に来たときはまだ100戸入居していると聞いたので驚くと、夏休みの終わりにバタバタと「卒業」していったとのこと。中には、いつ出て行ったのか分からない家や荷物をそのまま残して出て行ったところもあるそうだ。いまだ残っている方々は、震災の頃も大変辛い思いをしたが、みんなで助け合い団結していた。けれど、今は将来がまったく見通せず、ある意味、震災直後より辛い思いをしている、とのことだった。


 地の森仮設に行くが、休日のため集会所は戸閉め。長安寺に初めてお参りする。地元の名刹である。壮大な山門、ご本堂に圧倒される。ご本尊がありがたいのだろう。

 

 お昼はサンマラーメン黒船へ。11時半であるのにほぼ満員。お二人はサンマラーメン、私は魚介豚骨つけ麺。それぞれの味わい。おいしい。高級カップ麺として全国販売されたのを機に行列の出来る店になったとか。店員さんが来ていた黒のTシャツ、表が「月をながめてあるこうよ」裏が「雨の日ばかりじゃない 決してさよならだけ 風の日ばかりじゃない そして一人じゃない」とある。皆で購入。

 

 車は高速に乗り釜石方面へ。高速は繋がっておらず途中から下道を行く。遠く大きな観音様が立っているのを発見し、ちよっと寄ってみようということに。釜石大観音である。

 

  釜石大観音は、昭和45年に石応禅寺によって建立された、高さ48.5mの魚藍観音像で、釜石湾を見下ろしている。ガランとした広い駐車場に車を止め、500円の拝観料を払いエスカレーターに乗って観音様の足下へ向かう。

 

 きっと今から30年前は大勢の人でにぎわっていたのだろうとその隆盛が想像される。仏舎利塔にまず入る。スリランカから贈られた仏舎利と下の階には、八祖像が祀られている。いかにも造られた感じ。軽食を取る施設もあり、海を見ながら家族で観音様をお参りをする、今でいう「テーマパーク」なのであろう。観音様の胎内を螺旋状の階段を上っていくのだが、途中粗彫りの仏さまがいくつもお祀りされている。観音様のお顔の真下まで行き、展望スペースで海を見はるかし降りる。

 

 いまも釜石の観光名所として地元の方々の誇りとなっているのであろう。が、帰りの参道は、おみやげや一軒と中華料理や一軒を除き、すべて閉められている。テントに積もった土から背の高い草が生えている。店のドアの鉄枠はさび付き、自然に帰ろうという意志を感じる。寂しくなってここを後にする。


 その後、昨年講師にお願いする予定であった岩手大学の大矢先生が成したお仕事の一つである鵜住居観音を拝みに行く。鵜住神社の脇にある小さな祠がそれ。がれきの中からバラバラになった観音像を探しだし修復されたそうだ。拝した観音様は、観音堂再興までご安置するための身代わり観音だと後に知ることになる。


 一路来た道を引き返し吉浜に。駅で津波石の場所を確認し、細い道を海の方へ向かう。工事中でよく分からなかったが通りかかった方に伺いようやく対面。軽トラよりひとまわり大きい程度。津波石は、昭和の津波の時に打ち上げられたもので、子孫に津波の恐ろしさを伝えるために残されたものだったが、道路工事の際に埋められ存在を忘れられてしまった。

 

 しかし、今回の津波によって地面が削られ津波石が「出現」したという。まことに人のおごりを象徴するかのような出来事である。津波石には以下の文字が刻み込まれている。「津波記念石 前方約二百米突吉浜川河口ニアリタル石ナルガ昭和八年三月三日ノ津波ニ際シ打上ゲラレタルモノナリ 重量八千貫」。

 

  お風呂は初めて「遊YOU亭夏虫」に入ることにする。越喜来から右へと林道を10分以上走り、だいぶ寂しくなってきた頃、立派に施設が見えた。山にぐんぐんはいるので利用者がいるのか心配したが、大勢のお客様。宿泊施設に泊まっている方が多い模様だ。パラグライダーもできるようだ。結構混雑していた風呂にゆっくりつかり5時半出発。すぐに高速に乗ったので、竹野さん宅にも早々着いた。6時過ぎ。

 

 この晩は、やまちゃんへ。日曜も営業しており便利である。常の如くさしみをたくさん頂く。締めは海苔巻き盛り合わせ。隣に来たお客さんと大変盛り上がる。北里大学の海洋学部に通っていたこと、やまちゃんとは、あなごを3本釣ってしまい料理が出来ないので、差し上げようと寿司屋(当時は寿司屋にお勤め)を尋ねると、調理をしてくれたということがきっかけだそうだ。

 

 北里大学の海洋学部は、世界で唯一の三陸沖についての研究機関であり、大震災によって海の状況が変わってしまったこれから様々なデータをとることが研究発展の大切な役割を果たすことが出来るのに、気仙に学部を置かないという方針となったことは残念でならないとおっしゃっていた。気仙の方々に育てて頂いたと感謝の言葉を述べられた。数年に一度はこちらを訪れるのだそうだ。いろご縁が繋がる。

 

 13日(月)

竹野さん宅…長部コミュニティーセンター(10:30)〔要害観音堂聖観音さまの御前にて読経、法話30分、延命十句観音経写経終了後昼食〕(12:00)…古谷観音堂(12:45)(13:00)…上長部観音堂(14:00)(14:30)…長部コミュニティーセンター解散…一ノ関駅…上野駅

 5時起床。この日は港周辺を走る。埠頭が新たにできあがり、烏賊釣り船が電灯をたくさんぶら下げ停泊している。釣り人もちらほら。6時過ぎから部屋の掃除。布団をたたみゴミを片付け出発。まずはローソンで朝食。8時に竹野さんのお宅に伺いカギを返却。


 浄土寺さんに立ち寄るとご住職とお会いする。ニコマルクッキーが全国各所から注文が入り、作るのに大わらわだそうだ。ちょっと形の悪いものなどたくさん頂く。味は変わらないので美味しい。


 すぐ脇には災害復興住宅が完成していた。税金を使った施設なので入居するに当たってもいろいろ制約があり、10戸ほど開いているそうだ。ご住職は今までは夜真っ暗だったのに、明るくなりました、とおっしやっていた。入居者が土日の度にふえてくるという。先日入居したというおばあさんは、広い部屋に引っ越せたけれど、毎月7万円の家賃を払うのは大変であり、若い人には一戸建てを建てなさいと勧めているのだとおっしやっていた。


 9時に長部コミセンに着く。すでに陸前高田市観光物産協会の大坂さんらが机を出し、布団を並べてくれている。10時には要害観音堂別当熊谷さんが聖観音さまをお持ち下さる。部屋の正面にお祀りする。早くからおいで頂いた方々には、要害観音さまの説明をしたのちお参りいただく。ぽつぽつお集まりになり、総勢20名になった。みなさん車で来ている様子。BRT利用者はいなかった。


 この日は岳上人にすべてをお任せ。まずも岳上人の「延命十句観音経」についての法話、そして「延命十句観音経」の写経を行った後、要害観音さまに「巡礼のしおり」を使ってみなさんで法楽を捧げた。最後にはお一人お一人の願意を読み上げた。しっかり顔を向けてお話しを聴いて下さる。


 各自昼食を取り、予定を早めて12時に出発。なんとか天気も持ちそうだ。まず近道をして古谷観音堂。この辺りで生まれ育ったという方がおり、その脇にある細道を通って小学校に通ったと教えてくれた。堂内で法楽。お経の声が反響して皆さん一体になった感じがする。やはりお参りはただ手を合わせるだけでなく、お経を一緒にお唱えしたい。格子戸を開けて6体の観音様を拝んでいただく。お堂の中には何度も来たけれど、観音様を間近で拝んだのは初めてという方がいた。


 実吉さんの解説がある。いろいろ話ながら長部の港へと向かう。港は工事中。長部川ぞいの道をさかのぼる。上長部観音堂は山道が少しある。みなさんつらそう。暗い堂内で読経の後、ライトで照らして観音様を拝する。近くにお住まいの方も初めて観音様を見たとおっしゃる人、お堂の中にはいるのは初めてという人、30年ぶりにお参りしたという人。地元の方々でもいろいろ発見があった模様だ。


 お堂の外に出ると雨が降り出した。近所の方からお茶と飴のご接待を受ける。帰りは30分。国道から近道をして長部コミセンに到着。3時過ぎ。みなさん楽しげに歩いてくれてよかったと思う。片付けをして解散。3時半発。


  5時過ぎには一ノ関到着。飲み食い処「作」にてお通し、味噌カツ、煮込みの作セットを食べる。1500円。酒は酔仙がないので浦霞純米を。帰りの電車で地ビールの缶を3種類テイスティング、ちよっと飲み過ぎた。


 次年度は、盛町カメリアホールで講演会、一日徒歩巡礼は、盛周辺の洞雲寺、長谷寺、稲子沢、舘下観音堂で行おうとなる。その次は、新築された住田町役場に隣接するホールが良いのでは、と提案。アイデアが次々と浮かび楽しいですねー。