活動報告(11)2013年10月

期 間:10月26日(土)~28日(月)

 

10月26日

上野駅(8:02)…一ノ関駅(10:22)…気仙沼・常念寺…陸前高田観光物産協会

…光照寺(15:30)観音堂入仏式…竹野さん宅

 伊豆大島に甚大な被害をもたらした台風が東海上に消えたおよそ10日後、また二つの大きな台風が南海上に発生し、日本に近づいてくるという。二つともに速度が遅く、いつこちらにやってくるのかよく分からない。週末に関東再接近と天気予報に記されるが、確定的な情報はなかなか上がってこない。関東直撃と我々の出発とが重なり新幹線が動かないのか、それとも東北に大雨をもたらし、行ったは良いがすべての活動を取りやめることになるのか、数日前から日に何度もヤフーの天気予報をクリックした。どうも関東をかすめ日本から遠ざかっていくようだと分かったのが前日。これも南に向かって大手を広げ「台風よ、去れ、消えろ」と叫んだ効験なのだろうか。とにもかくにも気仙に行けることなった。

 

 天気は、曇/雨。東北へ向かえば小降りになるだろう。上野駅中央口7時45分集合。今回は徒歩巡礼があるため錫杖と網代笠を持参する。新幹線の車窓からは刈入れが終わった稲が田に干してある。のどかな風景だ。なかなか雨は止まず一ノ関着(10:22)。トヨタレンタカーでカローラフィルダーを借り出発。

 

  善光寺出開帳の事業のひとつに、津波の被害があった岩手から宮城までの東北沿岸部の地域7か寺に新たに鋳像した善光寺如来をお祀りするという事業がある。それは、地元の方にお参りいただくだけでなく、ゆくゆくは県外の方々にも7箇寺の善光寺如来の巡礼をしていただこうという試みなのだ。その一箇寺が気仙沼の常念寺さまである。先日ご住職の高橋上人が亡くなられたとの報を耳にし、お参りさせていただこうということになった。

 正午に気仙沼に着いたためまず昼食。初めて復興屋台村気仙沼横町に向かう。プレハブの小さなお店がぎゅっと肩をならべて建っている。気仙沼ホルモン、海鮮丼、中華、とんかつ、海鮮居酒屋などとりどりだ。我々は、うどんと海鮮丼を出す「たすく」に入店。おまかせ海鮮丼1000円也を食べる。お魚一杯でお米がたりないほど。おいしくいただく。お店の壁にはマジックで訪れたお客さんたちの励ましのメッセージがマジックでびっしり記されている。ぜひ夜に来てみたい。海産物のおみやげ屋でオイスターソースやさんまの佃煮やらを購入。

 そして、小雨降る中、常念寺さまへ。建てたばかりの立派な本堂の裏山の斜面には墓地がびっしりと作られている。ご本堂にてお勤めをする。ご本尊の大きな阿弥陀様の前に善光寺如来様がお祀りされている。まだ小雨が降っている。すぐに失礼する。

 

 車の中で昨日今井上人がなさった人生初の御法話の音源を聞く。本人はたいへん恥ずかしがっているが、気合いの入ったお話であった。見慣れた高田の町に入る。

 

 陸前高田観光物産協会に伺いご挨拶。明日の徒歩巡礼について数点確認する。一日徒歩巡礼は、高田、大船渡、住田の三観光協会が主催、ひとさじの会主管とさせていただいた。これにより市報にて参加募集ができることになった。参加15名。台風の影響で数名キャンセルになってしまったとのこと。陸前高田観光物産協会の大坂さん、実吉さんには、募集、名簿作り、保険加入、バスの手配、駐車場の確保などすっかりお世話になってしまった。ありがたいご縁をいただいた。

 光照寺さまに到着(15:00)。6月に伺ったときは陸前高田駅を模した位牌堂が建設中であったがそちらも完成、向かい合う形で坂口観音堂が再建されていた。総代、世話人さんら20名ほどお集まりいただいていた。すぐに高澤ご住職にご挨拶。

 坂口観音堂は、別当寺である光照寺本参道の上がり口にあったことからそう呼ばれたという。この度の大津波によってお堂が浮き上がりゆがんでしまったため取り壊すことになった。津波後、ご住職がはじめて堂内に入ったとき、観音さまは不思議なことに倒れることなく正面を向いてお立ちになっていたという。

 台座と光背を直し、彩色をほどこし、以前と変わらぬ美しいお姿を取り戻した。講員の中にはお亡くなりになった方、家が流され遠くに移った方もおり、以前の場所でなく光照寺境内に再建する決意を固めたそうだ。お堂の周りには、赤地に「南無坂口観世音菩薩」と白く染め抜かれたのぼりが掲げられ、「施主 ひとさじの会」と記していただいた。

 入仏式の準備があるとのことで「ののさまの 陸前高田駅」と掲げられる位牌堂を見る。正面には六地蔵がお祀りされる予定だ。天井には透明でかわいらしい絵にもの悲しいご住職のことばが添えられたパネルが掲げられている。「涙ばかりだと 目がはれても 心が晴れないから 私たち六地蔵にその涙あずけてください 曇った空の上には いつでもお陽さまが おいでになられます まるであの人たちの  笑顔のように」「『がんばってください』って まるで ことばの洪水のように…ありがたいことですね でもさあお地蔵さん どうがんばればいいか 何をがんばればいいか 分かんないんだよね がんばんなくてもいいじゃないですか 今、あなたは何ができるか さがしてみれば いいのです」。天井に掲げられた言葉は、いま残された方々に話りかけている。一枚一枚が心にしみ入る言葉だ。

 新しい堂内に上がりご住職と法要。『観音経』を皆でお唱えする。最後に式に参列していただいた檀家の方々に向かって、坂口観音堂の歴史的経緯とひとさじの会の活動についてお話しなさった。加えて感謝状まで頂戴する。こんなに我々の活動を注視してくださったと感激し涙がこみ上げる。以下感謝状の文面「東日本大震災による被災者の心の回復を気仙三十三観音祈りの巡礼再興支援という形で携わられた貴会の施行により当坂口観音堂も此に新たな堂宇を再建することが出来ました 諸師方の菩薩行に心より感謝の意を表します」と。もったいない、ありがたい。坂口観音さま再拝。

 式終了後、以前は建築中で、完成したばかりの「寺カフェ」にご招待された。木の天井、黒く塗られた壁、そして朱色の机は先住が書道教室を行っていたときに使用したもので、板に点々とついている黒は墨だそうだ。奥には松の一枚板のカウンターが。前には遠野の工房で買ってきたというゆったり座れる椅子が置いてある。照明は温かな色のLSD。おしゃれな喫茶店に来たようだ。住職のデザインだそうだが、基本的なコンセプトは、津波のことを感じない空間を作り、しばしのひとときを心静かに過ごしてもらいたいということだそう。確かにプレハプ店舗は壁やコンクリートの床からそれと分かってしまう。3人のママさんが、コーヒーとお茶を出してくれた。お二人は津波でご家族を亡くしたそうだ。住職曰く、「ボランティアの人が被災地に来て元気をもらったとよく言うけれどあれは違う。心が折れそうなのでカラ元気を出すしかないんだよ」と。辺りは暗くなっていく。5時過ぎに光照寺さまを後にする。暗闇の高田の街を大船渡へと向かう。

 

 家の鍵をお借りし、いつものお風呂へ。初日は常のごとく屋台村「なかむら」へ。大賑わい。テレビで日本シリーズ放映中。

 

10月27日

竹野さん宅…大船渡中学校文化祭見学(8:40)(9:40)…住田町観光協会…世田米駅(10:45(11:30)…満藏寺…向堂観音堂…長桂寺…城玖寺…坂本堂

…世田米駅解散(17:00)…麺太(挨拶)…竹野さん宅

 6時起床。この日は日曜日。徒歩巡礼の際の配布物を準備をし、いつものローソンで朝食。おにぎりとかけうどん。ちょうどこの日が大船渡中学校の文化祭に当たっているので、体育館で郷土芸能を見学する。大船渡中学校のグランドに立っている永沢仮設には何度も伺ったが、校舎内に入るのはじめて。車がぎっしり駐まっておりおおにぎわいだ(8:50)。体育館の前で永沢仮設のおなじみの方々と偶然お会いする。暗幕が引かれ薄暗い体育館にはびっしり人がおり、保護者の方々はビデオを回している。見やすい一列目に座り見学する。

 

 

 初めは「笹崎鹿踊り」、後方より中学生入場。自己紹介の後、お面を取って挨拶すると体も小さくあどけないのだが、いざ踊り出すと堂々たるものである。打ち鳴らされる太鼓に合わせてダイナミックに踊ると、角とは別に上に伸びる「ささら」が右に左にと揺れ動く。神の依代なのであろうか。舞台下では真剣なまなざしで横笛が奏される。失敗しちゃった動揺が顔や仕草に現れてしまうのもご愛敬。なんでも10日間程度しか練習していないと聞いた。地元の伝承会の方々が懸命に伝えるのだろう。まさにこの地に根ざした伝統の力だ。 「地の森権現舞」「赤澤鎧剣舞」と続く。「鎧剣舞」とは平家の怨霊が夜な夜な源氏の武者の元に現れるので、さる高僧が念仏を唱えて鎮魂するというものだそうだ。怖い顔の面をかぶり剣をもった者たちが曲にのって踊るというもの。初めて気仙の郷土芸能に触れ楽しく時を過ごした。帰りに大船渡中学の金校長先生にご挨拶して講堂を後にした。

 途中コンビニで昼食を買い、住田町世田米へ(10:45)。この日は住田町の文化祭と産業まつりが実施され町中が車で一杯とのことだったが、ちょうど世田米駅の駐車スペースが空いていた。すでに浄土宗岩手教区青年会の方々、陸前高田観光物産協会の実吉さん、大坂さん、そしてご参加の方々が集まりつつあった。仏師の村上清さん、長谷寺ご住職宮城さんも参加して下さった。一般の方15名、僧侶・スタッフ13名計28名の参加であった。

 

 駐車場で簡単な開会式を行う。観音さま散華、マップ、巡礼のしおりをお配りする。実吉さんからご挨拶。早速、満蔵寺へ出発する。浄土宗新聞の服部上人に救護車の運転をお願いする。ひとさじメンバーは、みな網代傘と錫杖という出で立ちだ。

 満蔵寺は、気仙大工の技を凝らした山門、本堂、何度見ても立派である。総代さんが待っていてくれる。ご本堂に上がり勤行をする。実吉さんの解説を聞く。以前本堂入り口にあった30体近くもあった観音様は右奥の部屋に棚を作ってご安置されている。観音様は山門の上にあると聞いたので、初めて楼上に上がらせていただく。急な階段を上りたどり着くが真っ暗。戸を開けると光が入り突然周囲が見え出す。楼の外にでると世田米の町と気仙川が見下ろせる。高度感があり結構怖い。楼上には彩色された小さなお地蔵様が百体以上、その他さまざまな仏像がご安置されている。気仙の観音様もその中に発見。みなさん思いがけなく山門に上れ、得した気分の様子。ここで15分の昼食休憩。境内のここそこに別れ食事を取る。

 

 ここから長桂寺までが1時間弱か。私が先頭になり、錫杖を突きながら歩く。住田町の千葉さんは、住田の歴史に詳しく、道ばたの大木について住田の歴史についてあれこれと教えてくれる。国道を歩くこの区間が嫌なところだと話していると、対岸の川沿いの道を教えてくれた。少し遠回りになるかも知れないが、車の行き来を気にせずにのんびり歩けるのはありがたい。

 

 参加者の中には「徒歩巡礼」という語を見落としたという方も複数名いる。「えっ、上有住まであるくの…遠いよ」と絶句。実吉さんも歩き始めたばかりというのに「今までこんなに歩いたことはない」と少々弱気。かと思うと「四国遍路を歩いて巡ったので楽しみにしてきた」とか「毎日歩け歩けで1時間以上歩いているのでこれくらいは散歩ていど」と余裕の人もいる。

 

 遍路をしたという方は、大峰山で峯中修行もしてきたそうで法螺貝持参、各所で「ブォー」という良い音を聞かせてくれた。40分歩いて実吉さんの講話。「この辺りは砂金が取れるところでこの橋の工事の際、岩の割れ目に親指大の金が取れた。この辺りの川をさらうと今でも砂金が取れます」。一攫千金とはまさにこのこと。ちょっとくたびれ無口になった皆さんの顔に笑顔が広がった。国道を離れ細い道を行く。のんびりと畑と家が交互に現れる風景が続く。徐々にみなさん疲れてきた模様。先頭と最後尾との距離が開いてきた。

 

 長桂寺の参道の大木が遠く見えてきた。ようやく長桂寺。ご住職と奥様が待っていて下さる。ご本堂で法楽を捧げる。観音様の来歴についてご住職からお話いただく。お茶とお菓子までご用意いただき恐縮する。

 

 当初はすべてを歩く予定であったが、疲労の色が濃い方もおり、足が痛くなったという方あり、大坂さんにバスを呼んでもらえないかお尋ね。早速、住田交通に連絡いただきすぐにバスを出していただけることになる。みなさんホッとした表情でバスに乗り、城玖寺へ。バスの中は温かい。ご本堂で御法楽。こちらもお菓子とお茶をご接待いただく。実吉さんの寺の歴史の解説。お寺の倅さんと話をしたが、今度鶴見の総持寺に入るとのこと。「ひととおり学ぶまで、何年かかるかわかりませんが、自分で決めたことですからしっかり修行してきたい」と強い決意を語ってくれた。

 すぐに坂本堂。母屋につながっているお堂には座布団を敷いていただいた。堂内に入って法楽。正面には鏡と役行者像。左に観音様という神仏習合のかたちをみなさん興味深く見ていた。あたりは徐々に薄暗くなっていく。世田米まで戻り向堂観音堂。バイパス沿いにあるが、「前は車で何度も通ったけど、こここが霊場だとは知らなかった」という声が多かった。15名入ったらぎゅうぎゅう詰め。でも般若心経を唱える声が堂内に反響し、みなでお参りしているという感じがしみ入る。

 

 別れ際、気仙三十三観音バスツアーに参加したことがあるが、今日はお勤めが皆で出来たことがとてもよかったとの感想を頂いた。保育園の駐車場にみなを下ろし解散とする。来年も参加してくれるだろうか。スタッフの方、村上さん、宮城さんとも世田米駅でお別れ。バス代、保健代、実吉さんの講師料は三陸気仙で負担していただく。次回は歩く距離を短くして、プラスαで何かイベントをしたらどうかという話になる。

 

 解散予定の5時になる。辺りは薄暗くなっていく。いつものオーシャンビュー丸森にて風呂に入る。この日、屋台村は「大船コン」という大々的な合コンの会場となっておりちょっと遠慮する。大賑わいであったと後日聞いた。日曜日で「いこい」も休みなので、一年半ぶりに「やまちゃん」へ。おさしみを美味しく頂く。激しく騒いでいたのだが、横で食事をしていた美容師さん二人は、実は金剛寺さんの檀家で翌日浄土寺さんでお会いすることになる。その時は再会など夢にも思わなかった。帰ってすぐに眠るが、いまだ心の炎が燃えさかっている一群あり。

 

10月28日

竹野さん宅(7:30)…浄土寺(8:00)…「秋のお念仏の集い」集客(10:00

…法要・法話(11:00)…炊きだし(12:00)…一升米配布(13:00)

…「秋のお念仏の集い」終了、「気仙三十三観音への招待」(13:30)

…講演会終了(15:00)…撤収完了(16:30)…要害観音像お戻し…一ノ関駅…上野駅

 6時起床。部屋・トイレの掃除をしてローソンへ。店員のおばさんが顔を覚えていてくれちょっとうれしい。いつもの通りおにぎりとうどん。竹野さんのお宅に鍵をお返しし浄土寺へと向かう。浄土寺にはすでに、浄土宗青年会の方々、淑徳大学藤森ゼミの方々、カフェを開く方々がテントを張り、イベントの準備を進めている(8:30)

 

 私と順子さんはすぐに要谷観音堂別当熊谷さん宅に観音さまを受け取りに要谷仮設へ伺う(9:00)。お茶を頂きながら、仮設のすぐ裏の高台に移転のための土地を求めることが出来たこと、いま造成まっ先中で来年3月には住宅建設を始められそうなことを伺う。28戸あった集落のうち7戸だけが高台移転。畑がある人はそこに新居を構え、子供を頼った方は遠方に引っ越したとか。元の集落のかたちにはもう戻れない。ご近所の方々と以前のように暮らすことももうない。玄関の外に出ると盛んにダンプやユンボが動いていた。観音堂は母屋と同時というわけにはいかないが近々建てたいと思っており、近くに住む講員さんの意見も聞きながら計画を練っていきたいとのこと。観音堂再建が待ち遠しい。聖観音像は、仏師の村上さんから教わったとおり、白い手袋をし、厚手の段ボールに衝撃吸収のクッションを敷き詰め、大切にお納めする。安全運転で浄土寺に向かう。

 浄土寺に着くともうスタンバイ。本堂前に大勢の方が集まっている。仮設住宅の方は配布するお米を受け取った後、炊き出しのおにぎり、豚汁やたこ焼きなどを召し上がっている。私たちは藤森ゼミの方々の指導のもと入浴剤作りを行う。山門脇から少し高台に登り、何もなくなってしまった高田の街を見渡しながらおにぎりを食べる。浄土寺のすぐ脇には8mの土盛りがしてあり、市営の復興住宅が建つとのこと。見渡す限りの平地にどのように土盛りがされるのか。その後どのような街並みが形成されるのか。数年でできあがるというわけにはいかないだろう。まだまだ未来の街は想像できない。

 

 本堂での法要と法話が終わった様子なので、講演会の準備を行う。椅子をすべて並べ、布団をすべて敷く。およそ100人の席ができあがる。佐々木先生が到着される。スクリーンとパソコンをお持ちいただいた。早速セットする。続々と人が集まってくる。開始時刻には堂内いっぱい100名を越える方々が集まって下さった。昨日の徒歩巡礼に参加して下さった方で引き続き来てくれた方が7名いた。ほんとうにありがたい。

 初めに私から、ひとさじの会の紹介、気仙三十三観音再興プロジェクトについての説明、そして、五月に行われた「善光寺出開帳 両国回向院」の報告を行った。出開帳では、4万を超える方々が気仙の観音様にお手合わせなさり、ぬかづき涙を流していた方も多くいらっしゃったことを是非お伝えしたかった。

 

 次に、浄土寺のご詠唱講の方々による浄土寺のご詠歌奉詠があった。3曲ほどお唱えされると思っていたが、1曲で終わりちよっと焦る。

 

 最後に岩手県立博物館主任専門学芸員の佐々木勝宏先生から、「気仙のたから~大肝入の遺したもの~」と題する講演を頂いた。佐々木先生は、以前高田高校の教員をされていたことがあり、公務員住宅が浄土寺のすぐ脇にあったこと、お子さんが浄土寺さんの保育園でお世話になったことがあり、因縁があるとのことで講師を快くお引き受けいただいたという経緯がある。

 

 ご講演では、今泉の大肝入、または大庄屋と呼ばれた吉田家住宅や吉田家文書についてのお話が中心であった。気仙の今泉は山と海の産物の集積地として栄えたが、今泉にあり気仙二十六ケ村を統括する家が吉田家である。飢饉の恐れがあるときは、今でいう公共事業のように、観音様のご開帳にかこつけ、小屋の建設、市の開設を行ったり、氷上神社の社殿の再建を行ったり、造り酒屋がつぶれたときは、少しずつお金を集め株のようなものを買わせ援助をしたりした。また盛岡藩の一揆の影響が気仙に及んだときも、流入してきた人々に住居や食事を与え、仙台藩に話を取り次いだこともあった。

 

 吉田家二十代にわたって記された日記は、目の前の問題に対し具体的な対処策が記された「気仙の知恵袋」といってよい。150点ほどあった吉田家文書のうち7点が見つからないが、他は現在国立国会図書館で修復中である。吉田家住宅については、部材を集め洗浄してある。足りない部材は補い「気仙の宝」の復元を行わなければならない。それは技術の継承にもなるし、雇用の創出ともなる。街作りにおいても、どこにでもある街にするのでなく、少しでも昔の形を残すよう働きかけていきたい。気仙は魚、塩、米、材木などなど豊かな産物に恵まれた地であり、夏は涼しく冬は暖かい暮らしのしやすい地でもある。また、「気仙人」は自分でやろうとする強さを持ち皆で助け合う結束力がある。ふるさと気仙を見つめ直し、「気仙人」であることを自らの誇りとして頂きたい。このようなお話であった。笑いあり涙ありの充実したご講演であった。佐々木先生にはご無理をいって講師をお受けいただいた。この場をお借りして御礼を申し上げたい。ご講演の詳細については後日冊子にまとめる予定である。

 講演終了後、浄土寺さまの聖観音さまと、震災から一月後がれきの中から発見された要谷観音堂の聖観音さまを拝んでいただいた。ご本堂の片付けをし、浄土寺さまを後にする。帰りに要谷観音堂の観音さまをお戻しする。気仙沼経由で一ノ関へ。徐々に薄暗くなっていく風景を見ながら、この3日間を振り返った。ああ、満ち足りた3日間だった、としみじみ思う。

 

 

 一ノ関駅で服部上人と合流。初めて入る「樽」という店で、本当に6人が入る大きな樽のなかで30分限定の反省会を行う。ギリギリとなり階段ダッシュすると新幹線が入線してきた。あぶない。車中でさらにさらに深く反省を行った。