2016年

4月

21日

サンマチ2015報告

2015年12月19日~20日参加者:吉水岳彦、福田亮雄

 津波で直接的な被害を受けた子も、そうでない子も皆、今なお不自由な学校生活を送っている。地元大船渡の大人たちが子供たちに何かできないか、そんな思いから「子供たちに笑顔を届ける冬の風物詩」を合い言葉に「サンタが町にやってきた」という企画が始まった。サンタさんが町に繰り出し、公民館などで子供たちと遊び、お菓子をプレゼントする。地元大船渡だけでなく、東京からも多くの方が参加した。子供たちの笑顔、お父さんお母さんの笑顔、サンタさんも笑顔、今年3回を数え、しっかり定着してきたと感じる。

 

「祈りの道」再興プロジェクトがいつもご支援・ご協力いただいているミキ店長が、昨年よりサンマチ実行委員長に就任した。きっと一年を通して、様々な機会を捉えて若い方々と交流し、新たなスタッフを開拓してきたのだろう。そして、会議を幾度も重ね、実施計画の策定、人員の配置などなどきめ細かく行い、いよいよ本番の日を迎えた。その実行力に頭の下がる思いである。

 

 私たちも少し関わらせていただきたい、そして大いに楽しみたい。そんな思いで大船渡へ出発した。

12月19日

上野駅(8:02)……一ノ関駅(10:12)(10:23)……気仙沼駅(11:46)(11:54)……陸前高田駅 (12:30)…陸前高田観光ガイド講習会…陸前高田駅(17:04)…大船渡駅(17:50) 

 秋の行事の時、陸前高田観光物産協会の大坂さんから、今度来るとき、会の活動についてちょこっと話してくださいと依頼された。軽い気持ちでお受けしたが、後日送付されてきた要項には「陸前高田観光ガイド・震災の語り部研修会」と記されていた。地元のガイドさんたちに気仙の話をするなどはなはだ僭越である。でも、私どもの活動の内容を、地元で活躍されている方々に直接お伝えできる機会をいただいたことはとてもありがたいこと。今まで積み重ねてきたことをできるだけ正確に簡潔にお話ししようと、スライドを作り気仙へと出発した。

 

 8時に上野を出て12時半に陸前高田着。4時間半、これが最速である。下り立った一ノ関は晴れ間が出ているにもかかわらず小雪が舞っていた。ぐっと冷えている。ホームでは暖房の入った待合室に入るほどだ。しかし、気動車が気仙沼に近づくにつれ、晴れ間がだんだん広がり、ついには青空となる。少し暖かくなった。さすが、岩手の南国といわれるだけある。

 

 BRTに乗り換え高田へ。ホテル三陽を左手に見ると「ああ、帰ってきた」という感じがする。でも、高速道路の橋桁ができていたり、新たに冷蔵工場が建設されたり、なんといっても希望の架け橋からタコの足のように伸びていたベルトコンベアが撤去されていたりと、風景がまたまた変わっているのに驚かされる。陸前高田駅に到着。

 

 まずお昼を取ろうと、歩いて5分の栃が沢ベースにある「やぶや」に。震災前と変わらぬ味で人気だというこの店、すごい活気である。何度も前を通っているのだが、入るのは初めて。ぎっしりのお客で待っている人もいる。どうも天ざるが人気の様子、大勢の人がこれをチョイスしていた。私は時間が押しているので大もり。冷蔵庫で冷やしてある汁は、ちょっと甘めだが鰹節の香りがプーンと香っておいしい。また量がとても多い。満足して店をでる。

 

 隣の酒屋兼雑貨屋で、地酒酔仙の特別純米「多賀多」を購入。高田産のお米で仕込んだ美酒だ。少々予定より遅れて陸前高田市コミュニティーホールに到着。

 

 会場では、副会長で語り部の實吉さんが熱く語っていた。題は「震災で失われた高田・今泉にあった碑等について」。まず地名の語源についてのお話しだった。ケセンとはアイヌ語で端という意味だそうだ。この地をケセンと呼んだ人々の中心とはどこにあったのだろうか。

 

 

 続けて、①高田松原について、②五本松碑群について、③通岸道慶處士之墓、④津波石、⑤姉歯橋の由来、⑥千葉周作誕生の地碑についてお話しされた。すべては記せないので、高田松原について内容の要約を以下に記す。

 

 高田松原は、元々は立神浜とよばれる荒れ地であった。寛文6(1666)年のこと、仙台藩が行った水田開拓計画の一環としてその立神浜に暴風防砂林を作ることになる。請負者として地元の素封家である菅野杢之助に白羽の矢が立った。まず、人夫200人で6200本の松を植えたものの活着は3000本にも満たない。そこで5年をかけ徐々に松を植えていくよう方針を変更したところ、18、000本の活着を見たという。

 

 松の植林は菅野家の子孫に引き継がれ、左門杢之助、杢助、七郎左右衛門と尽力するが、私財を投じてまで植林を行ったため、豊かな菅野家も家が傾いてしまった。菅野家は仙台藩から松原を管理する役職に代々任ぜられ、家を存続させることができたそうだ。

 

 時代は移り、明治となった。金のなかった明治政府は、地元に松原を買い取るよう要請する。今の高田松原とは、今泉松原と高田松原を合わせての総称。今泉の松原については今泉村で購入することになったものの、高田の松原については、村での購入を見送ったため、松原を守ってきた菅野家の所有となる。しかし、菅野家が借財を払うことができなくなり、摺沢の横屋へと所有権が移った。

 

 ある時、横屋が婿を取って分家をさせることになり、高田松原の松を切って家を建てることにした。松が切られていくのを見た村人たちは、皆の共有財産であると思っていた高田松原が、実は個人の所有であることをその時初めて知ったという。

 

 折しも第二次世界大戦が終わった後、政府は財産税を新たに設けたが、高田松原もその対象となる。横屋はそれを払うことができず、20万で高田村に売却することが決まった。そのとき、村長に関わりのある高校生がリックに15万円を詰めて払いにいったというのは今では考えられないお話しである。かくして高田松原は、高田の共有財産となった。

 

 その他、高田市街付近に周囲約18mの花崗岩がありその周りを五本の松の大木があった「五本松」に立っていた、村上道慶顕彰碑、金野種山先生顕彰碑、金比羅大権現、湯殿山碑、坂井布機の碑の由来や、自らの命を掛けて今泉村と高田村との漁業権を巡る争いを収めた村上道慶の話、先祖が子孫に津波による惨禍を繰り返さないために残された「津波石」が、高田に10箇所、大船渡に25箇所、岩手県沿岸部に200箇所もあるにもかかわらず知る人がほとんどいないという話、姉歯橋の名は、『伊勢物語』に記される栗原の姉歯に住んでいたという朝日姫、夕日姫に由来するという話、千葉周作の生誕地論争に終止符が打たれ、高田であることが証された話など興味深く伺った。

 

 よどみなく、明解な実吉さんのお話は何度聞いても聞きほれる。ガイドの皆さんも真剣にメモを取りながら話を聞いていた。

 

 そして、私が「気仙三十三観音霊場への招待」という題でお話申し上げた。気仙に足を運ぶようになった経緯や仮設住宅の集会所での活動について、気仙三十三観音との出会い、そして展開してきた活動について、合わせて活動の中で見知った気仙三十三観音霊場にまつわるニュースとして、①小松峠の観音様について、②稲子沢家観音堂再建について、③立山観音堂再建について、④坂口観音堂再建について、スライドを写しながらお話しした。

 

 驚いたのが、なんといっても視聴率の高さ。普段の大学の授業よりこちらを向いて話を聞いてくれた方がグッと多かったのでノリノリで90分お話しすることができた。楽しかった。

 

 終了後、ご挨拶した会長の金野さんは酔仙酒造の方。「雪っこ」飲んで復興支援という私たちの合い言葉をお伝えする。また、観音霊場のガイドをすることになったとき、我々のHPを読んでくれたという方にもお会いし、久々にガイドの新沼さんともお話することもでき、繋がりが広がりまたご縁が結び直された。

 

 5時ころのBRTに乗り大船渡へ。6時大船渡着。あたりはすっかり暗い。日が落ちるとグッと寒くなる。急ぎ竹野さん宅に向かい鍵をお借りし、荷物を置いてから屋台村へ。この日はなべ焼きの森さん経営する「天使の森」へ。お通しは巻き貝刺身、あぶりチャーシューと牡蛎のピリ辛炒め、締めは富士宮焼きそばで腹一杯。酔仙を冷やでぐいぐい行く。

 

 ぐいぐいと盛り上がったおじさんは、マグロの仲卸を営んでいる方。被災し家族を東京に避難させ単身で仕事をしているそうだ。震災の前は、利益を上げることが一番だったけど、色々な人に助けられたから今度はその恩を周りの人にお返ししたい、それが一番とおっしゃった。マグロが安く手に入ったときは少しずつ仮設の人に配ったり、夏にアンコウが500円で手に入ったときなど鍋を作って振る舞ったりというお話しを伺った。まっすぐな心がまっすぐな言葉で伝わってきた。悲しいお話しも伺ったがなんともほのぼのとしたひと時だった。最後に固い握手をしてお別れする。

 

 

12月20日        

竹野さん宅…大船渡駅(8:33)…盛駅(8:35)(9:20)…サンマチスタート…

 6時半起床。やはり寒い。いつものローソンにて朝食。大船渡牛乳を飲む。8時に竹野さん宅に伺い鍵をお返しする。大船渡駅からBRTで一駅乗り盛へ。

 

 会場のカメリアホールで、吉水さんと合流、ミキ店長ともお会いする。天気が良いのはなによりだ。駅前ロータリーには、屋台が出ており、サンタさんがうろうろ歩き回っている。受付を済ませ中に入る。

 

 新川さん宅に荷物を預けに行き、盛駅に出店している高校生喫茶でココアをいただく。濃厚でうまい、本格的な味わいだ。私たちは吉浜コース。同道するメンバーと簡単な自己紹介の後、サンマチ特別列車に乗り吉浜へ。以前もお会いした方と再会を喜ぶ。

 

 車内は、クリスマスらしい装飾がほどこされ楽しい。途中の駅で別のコースの人が下りていく。

30分ほど乗り吉浜へ。一緒に過ごすのは早稲田大学の学生サンタ。国内外でボランティアを行っているサークルだそうだ。

 

 駅より津波の記念碑、石川啄木の歌碑を見学した後、津波石へ。津波石とは、後生に津波の災禍を忘れぬよう刻まれた石。昭和8年の津波の際、打ち上げられた幅3m立2mの大きな石に「津波記念石 前方約二百米突 吉浜川河口ニアリタル石ナルガ昭和八年三月三日ノ津波ニ際シ打上ゲラレタルモノナリ 重量八千貫」と彫られている。道路造成の際埋めてしまったが、この度の津波で表土が削られ「出現した」ものである。近くまで行ったのだが、津波で壊された橋がまだ架け直されておらず時間切れで見ることは叶わなかった。

 

 空は青く海は静かで、のんびりと吉浜歩くことが出来た。お寺に津波記念碑があり、集落名と亡くなった方の名前が刻まれていた。同道したみなさんにも見て欲しかった。途中のスーパーで昼食を買い、公民館へ。スーパーのおばさんの孫がサンマチに参加するということもありすごくまけてもらう。

 

 昼食を取っていると子供たちが集まってきた。総勢15名程度か。お母さんやおばあちゃん、お父さんといっしょに来る子供もいる。小学校高学年の子もおり、体格の差が大きい。

 

 吉水さんがバルーンを教える。時間は1時間半、結構な時間だ。バルーンで作ったお花を手に結んであげたり、長い風船をふくらませ剣を作ったり…。バルーンで作った輪を、それぞれが持つ剣で手を使わずにリレーをするというゲームや、グループの中の一人がする仕草を皆が真似をするのを鬼が見て誰が仕草を発信しているかを当てる「震源地」というゲームをする。

 

 座が和らいでくると大学生と剣をもってのじゃれ合いとなり、会場所狭しと走り回っている。子供たちも楽しそうだ。最後は、おかしを一人一人に手渡す。子供達は「サンタさんありがとうございました。また来年も来て下さい」と可愛い声で声を掛けてくれた。

 

 

 帰りもサンマチ列車で盛へ。大船渡各所の公民館に何百人という子供たちやご両親、ご家族らが集い、楽しい時間を共有できるということは素晴らしいことだ。ぜひ、サンマチが継続していって欲しい。カメリアホールではコンサートなど各種イベントが成されている。

 

 新川さん宅へ荷物を取りに伺う。知人に挨拶しているともう4時過ぎ。この日のけせんライナーがとれないため、遠野経由で帰らねばならない。すぐにサンリア前のバス停へと移動しバスに乗車する。

 

 すぐに辺りは暗くなる。徒歩巡礼で歩いた道を北へと向かう。風景は分からないが、聞き知った地名がありちょっとうれしくなる。5時半に遠野着。日曜ということもあり町は真っ暗。食堂、ラーメン屋、喫茶店がぽつんとやっているのみ。居酒屋は三軒開いていたが、駅前の「待月」が最も良さそうなので入ってみる。遠野の上閉伊酒造が醸す、万山にごり酒、遠野夢街道、国華の薫と立て続けに責める。お刺身やブタの岩塩焼きなど久々の遠野の夜を楽しみ、10時の夜行バスに乗った。やはり翌朝、首が凝り腰も痛くなった。

 

 講演会そしてサンマチと楽しめた年末であった。次は3月の徒歩巡礼。立山観音堂がもう形を成している時期なのでその姿を見るのがまた楽しみである。